フィリピンの近代史(2)フィリピン独立革命の第二幕~第一共和国の興亡
フィリピン日本人商工会議所
副会頭・専務理事 藤井 伸夫
{和平後の事情}
スペインとの休戦協定が1897年7月に成立し、翌1898年1月マニラでは平和気分でフェスタなどを開催して盛り上がったが恒久平和とは程遠く、双方の不信感は根強く残っていた。 フィリピン側の将軍は軍閥のような気分で兵力も温存していて、一例がターラック州でのマカブロス将軍の動きで、自軍の組織内に「中央委員会」を結成して地方政府の樹立を目指し、マカブロス憲法と呼ばれる組織と権限を定めたルールも持っていた。
一方のスペイン側では、度重なる小規模な衝突の平定に苛立ちを募らせていた上に、和平にまで漕ぎ着けたリビエラ総督は、本国総選挙で所属する保守党が破れて更迭され新総督にはフィリピン事情に無知なオーガスティン総督が任命され4月9日に着任した為、代わって帰国する事となった。
当時、既に米西関係はキューバを巡って雲行きは怪しく、「このままでは危険!」と帰国に抵抗はしたものの政治の駆け引きには無力だった。
{米西艦隊の決戦}
米はキューバ革命でスペインに対抗する革命軍側につき、国益の為にはスペインとの全面戦争も辞さずとしており、その急先鋒だったのが後に第26代米大統領となるセオドア・ルーズベルトで、マニラも狙っていたと言われ当時は海軍副長官に就任したばかりの気鋭の軍人だった。
ルーズベルトは、自分の配下を見渡すと“出来る”部下はデューイ提督しかおらず、1898年2月25日に前任者の退役があったことから、香港を基地とするアジア艦隊司令官に任命して機会を窺っていた。
一方のスペインは、キューバとフィリピンの二正面での米との対決は望んでいなかったが、ハバナにいた駐キューバ大使が友人に向けて「マッキンリー米大統領は弱虫で低次元の政治家」と手紙を書き、これが米の知るところとなり米の反スペイン感情は悪化していた。 また(都合よく、謀略?)ハバナ港で停泊中の米戦艦メイン号で爆発炎上事故が発生して兵士 246人が死亡した為、一気に全面開戦へと動いた。 それを受けてデューイ提督は4月25日、海軍長官の開戦命令により香港を7隻の艦隊でスペイン領のマニラに向け出撃した。
1週間後の5月1日早朝、艦隊はバターン・コレヒドールからの監視をすり抜けてマニラ湾奥にまで進んだが、肝心のスペイン艦隊を発見出来なかった。 その時、スペイン艦隊はカビテ州のサングレー・ポイントで開戦に備えて停泊していた。
*サングレー・ポイントは、マニラ湾に突き出た砂洲半島の先端のカビテ市域にあり、現在は海軍基地をNAIA の補助的空港として開発するプロジェクトが進行中。
夜明けの光の中で艦影を発見したデュ-イは、旗艦オリンピア号から艦隊に反転を命じて一斉攻撃にかかった。 艦数では優るものの装備に劣るスペイン艦隊は、米艦隊の敵ではなく早々と12時30分に白旗を上げあっけなく艦隊決戦は終了した。この知らせが米国内に伝わると、「フィリピン」はたちまち有名になったが、このキューバ・フィリピンの制圧が、その後の米の「世界帝国」のスタートラインだったと言える。
{アギナルドの帰還}
一方、香港のアギナルドはスペインとの休戦協定にあった賠償金問題で内務大臣との間で裁判沙汰(40万ペソの分け前をよこせという訴訟)が香港で提訴される動きとなった為、出廷回避を目的に腹心のデル・ピラールなどと共にサイゴンを経由してシンガポールに移っていた。 4月23日にシンガポールに到着するや、プラティ米シンガポール領事が比情勢について会見を求め、「米側に味方して欲しい。大統領・議会共に米は野望が無く、スペイン軍掃討後は撤退する。」として説得工作にあたり、アギナルドは対スペイン戦争に参戦するために帰国する事を承諾した。
香港の米アジア艦隊のデューイ提督にその旨の電報を打ったところ、「できるだけ早く香港に帰られたし!」との返信があり香港に向かったが、到着してみると既に米艦隊はマニラに向けて出港した後だった。
気落ちしたアギナルドだったが、今度はワイルドマン駐香港米領事が訪問し、「貴殿の帰還は対スペイン戦争に必要。平定後は米に似た政府を樹立しよう。すぐに追いかけて!」とのデューイの伝言を伝えた。 アギナルドは戦備を増強するのが先と考えて、ワイルドマン領事に対し、手持ち資金から5万ペソを渡して「2000丁のライフルと2百万発の弾薬」の購入を依頼してフィリピンに出荷するよう要請した。 この依頼は実現したが、6万7千ペソを渡して依頼した2回目の出荷は実現せず(ネコババ?)返金も無かった為、アギナルドに米側への不信感を残す結果となった。
5月1日の米艦隊勝利の知らせが香港に着くと、アギナルドは香港在住の仲間と会談し、「帰国すべき」との声に決意を固めて準備に入った。 米領事の「スペイン側に気づかれないように夜間に乗船を」という助言もあり、5月17日夜に香港を出港し19日にカビテ港に到着した。 早速、米艦隊の旗艦オリンピア号上でデューイ提督と会談が持たれ、「①米はフィリピンを植民地にするつもりは無い、②比の独立を認める」との話だったが、これも香港駐在領事と同じく「個人的見解」と断った上でのもので、その後の歴史からすれば「真っ赤な嘘!」だった。
しばらくして、香港から持ち込んだ武器・弾薬がバターンから陸揚げされ、アギナルドの帰還の報と宣言文(「独立を目指そう!」)も広まるとスペイン軍内にいた傭兵もフィリピン軍に続々と加わり、イムス・バコール・パラニャーケ・ラスピニャスなどは1週間で制圧し、パンパンガ州サン・フェルナンドなども奪回し、ラグナ州・バタンガス州・ブラカン州・ヌエバエシハ州と支配地域を拡大し、6月末にはカビテ港(米軍が押さえていた!)とマニラを除くルソン島のほぼ全域が比軍の支配するところとなった。
{独立宣言と政体の確立}
これらの戦果に先立って政体についての動きは、アギナルドの帰還前から進められていてマリアーノ・ポンセ起草による革命政府樹立プランが練られていた。
5月19日の帰還後間もない5月24日に、ビヤック・ナ・バト共和国の下に全比軍を統一する為、「専制政府」(DICTATORIAL GOVERNMENT)の成立が宣言された。 また、更に一層フィリピン人を戦列に加える事と国際社会からの独立の承認を得る為に「独立宣言」発布の気運が高まってきた。
当時はまだ非公式のアドバイザーであった「比革命の頭脳」と後に称されるマビニは、具体的な外国援助の獲得と新政府の安定化が先で、独立宣言は先延ばしで良いと反対したが、6月5日に「6月12日に独立宣言」との決定が下された。
1898年6月12日夕刻、カビテ州カーウィットのアギナルド邸の2階バルコニーで独立が宣言され、初めて国歌が演奏されると共に香港で要人の夫人達によって作られていた国旗が初めて掲揚された。
この独立宣言はバウティスタの作成したもので、アメリカの独立宣言を思わせる格調の高いもので98人が署名していてカビテ・ブラカン・ラグナ・パンパンガの各州などからの広い地域の出身者をカバーしており、弁護士・医師・教師など職業も多彩で1人の米軍大佐も含まれているが、アギナルド自身の署名は無く女性が1 人も入っていない。また、この独立宣言は「専制政府」が広い地域を支配するようになるまで知れ渡らず、8月1日になって支配地域で公表された歴史をもっている。
*独立宣言の中身や当時のアギナルドの生活ぶりは、カビテ・エコノミック・ゾーン近くのカーウィットにある旧アギナルド邸の「アギナルド・シュライン」を訪問されると一目瞭然で、1レーンのボーリング場やプールも室内にある。 備品や調度品も当時のまま残されていて、当時の生活が偲ばれる。
独立宣言以降、政府の形態が次々と定められていくが、ここで活躍したのが「影の大統領」「比革命の頭脳」と呼ばれたアポリナリオ・マビニである。 バタンガス州タナワンの貧困家庭に生まれたが苦学してサント・トーマス大を卒業し聖職者を目指している最中に小児麻痺に罹り断念し、1898年にアギナルドに乞われてアドバイザーとして活躍するようになった。 マビニは、6月18日の政令による地方政府組織の再編、6月20日の政令による法治主義の導入、仕上げは6月23日の政令による革命政府の樹立という政体の基礎作りに手腕を発揮し、「専制政府」は約1ヶ月で姿を消し「共和制」が発足した。
中身は、政治のトップの名称を「DICTATOR」から「PRESIDENT」に変更し、大統領が閣僚を任命するというスタイルで、議会については「大衆集会(POPULAR ASSEMBLY)→州委員会(PROVINCIAL COUNCIL)→革命議会(REVOLUTIONAL CONGRESS)」という構成であった。
7月15日には最初の4省(戦争・内務・外務・財務)の閣僚4人が任命され、実質的なスタートが切られた。
{マニラ攻防戦}
一方、スペインとの戦闘は、残された支配地がマニラ城内だけとなっていて、その攻防戦は次のようだった。
デューイ提督の率いる米軍は立て籠もる千人のスペイン軍に対し「兵糧攻め」作戦を取り、念には念を入れて援軍の到着を待っていた。 また、アギナルドの率いるフィリピン軍12,000人はトンド・サンタクルス・サンファン・カローカンに兵を進め、降伏は時間の問題となり6月6日には降伏勧告をアウグスチン総督に送ったが、「生死よりスペインの名誉の為」として応じなかった。
米軍の援軍は、6月30日にアンダーソン将軍の部隊、7月17日にグリーン将軍の部隊、7月31日にマッカーサー将軍(第二次大戦のマッカーサー元帥の父)の部隊がマニラに到着し、米陸軍はウェズレー・メリット将軍の指揮下に11,000人にまで増強されて最終決戦の戦列は整った。
ここでデューイ提督は生来の「外交戦略」を発揮してベルギー領事を仲介にスペイン総督との間で裏交渉を始め降伏プランを提示したが、スペイン本国政府の知るところとなり総督の交代が指示された。 新たに任命されたハウメネス新総督は望みがもはや無い事を知っていて、「形だけの戦闘。その後に降伏。」というストーリーが出来上がり、(フィリピン軍ではなく)米軍に降伏する事で最終合意が得られた。
シナリオに従って米軍はアギナルドに対しマニラ湾側の守備隊を米軍と交代させるよう要求したが、アギナルドの部下であるリカルテ将軍、ピオ・デル・ピラール将軍らは米の意図に疑念を抱き、逆に米軍の進軍を妨害してはと進言した。 加えて、米援軍のアンダーソン将軍は「米軍司令官の許可無しにマニラ城内への進入は禁止。パッシグ川の手前で戦え。」という電報をアギナルドに送ってきた為に、アギナルドの不信感は敵意にまで高まっていった。
8月7日デューイ提督・メリット将軍の海陸米軍司令官は、スペイン総督に「非戦闘員は安全な場所に移動せよ」との書簡を送り、9日には最後通告を発して10日の総攻撃を予告した。
悪天候の為に総攻撃は13日まで遅れ、デューイ提督の艦隊はフォルト・アントニオへの砲撃、グリーン将軍の部隊はマラテ方面から、マッカーサー将軍の部隊はシンガロン方面からの攻撃配置としたが、アギナルドの率いる比軍はアンダーソン将軍の指示を無視して、マッカーサー将軍の右翼に展開して突入に備えていた。
9時30分に艦隊からの砲撃が始まり、10時30分にはグリーン将軍部隊、11時にはマッカーサー将軍部隊が攻撃を開始したが、直後の11時20分にはマニラ城内のイントラムロスで白旗が上げられ、「予定通り」開戦から2時間もたたずにスペイン軍はあっけなく降伏した。
17時には米軍とスペイン総督の間で降伏が合意され、スペイン側は「スペイン軍と配下のフィリピン人部隊は降伏する」、米側は「市民・教会を守る」として最終文書が作成され、翌14日に公式の降伏文書が調印された。 当然ながらこの会談にフィリピン軍は参加出来ず、マニラ城内への立ち入りも許されなかった。
背景には本国間での大国同士としての外交交渉が既にあり、10日には米国務長官が調印文書のドラフトをスペイン政府に出しており、講和会議についても「双方5人以内の代表者。時期は10月1日以前。場所はパリ。」となっていてスペイン側も同意していた。
また、マッキンレー米大統領はワシントン時間の12日に「休戦宣言」を出しており、当然マニラにも届いていたがデューイ提督がケーブルをカットしてしまっていた。 従って13日のマニラ攻撃は米大統領の休戦宣言を無視して行なわれた事になる。
{マロロス議会とマロロス憲法}
9月4日に出された政令で50人の議員が指名されて15日からブラカン州マロロスでアギナルドも参加して議会がスタートした。 議長はその後首相になるパテルノ、副議長にレガルダ、書記長はアラネタという布陣であった。 最初の成果は、6月12日カビテ州カーウイットで行なわれた独立宣言の承認で29日に正式に承認された。その後の審議は、諸外国からも「国」として認められる為の基本となる「憲法」の制定が進められたが、考え方においては大きな意見対立があった。
マビニに代表されるグループは、「支配の安定化」を最優先事項と考えていた為、「大統領に強力な権限を集中し、議会はその補佐機関」との認識であったのに対し、パテルノに代表されるグループは、「諸外国からの認知」を最優先事項とする議会中心主義であった。
双方の意見対立は、カルデロンの主催する憲法制定委員会でも続いたが、結局はメキシコ・ブラジルなどの中南米諸国とフランスの憲法をベースにした案をたたき台に10月25日から実質審議がスタートした。
最大の争点は「カトリックを国教にすべきかどうか」で、第一回投票では賛否同数、第二回の投票は1票差で「政教分離」となり、第5条の条文は「国は全ての宗教の自由を認め、教会と国家は分離する」となった。 この政教分離の原則は、現在の憲法に至るまで貫かれている。
そして、1899年1月21日アギナルドがこの最終案を正式に承認して、ここにマロロス憲法が成立した。
中身を概観してみると、「国民主権」、「行政・司法・立法の三権分立」、「(アメリカ風の)大統領制」というもので、その時代としては考え得る限りの民主的な憲法だったと言える。
ユニークな点をあげると①立法機関を行政機関の上位に置いたこと、②パーマネント委員会という議会閉会中に代替する機関を作ったこと、③単一制の議会としたことの3点がある。
内閣のメンバーは、首相・外務がマビニ、内務がサンディコ、戦争がアギナルド(大統領実弟)、財務がトリアス、福祉・労働がゴンザガのそれぞれが任命された。
仕上げは、1899年1月23日ブラカン州のマロロスで行なわれたフィリピン共和国の成立式典で、アギナルドが大統領に就任、憲法が公表されると共に職業軍人以外のスペイン人捕虜に恩赦が実行されたが、これはアジア人によるアジアで最初の「共和国」であった。
{米西の和平会議とパリ講和条約}
1898年8月12日の降伏文書調印を受けた和平会議が、10月から2ヶ月にわたってパリで開催され、12月10日に調印されたが、その中身が問題であった。
骨子は「スペインはフィリピンの領有権をアメリカに移す」・「過去にスペインがフィリピンの改善に与えた対価として20百万ドルをアメリカがスペインに支払う」・「スペインに対して10年間の通商権を与える」というもので、要は“アメリカが20百万ドルでフィリピンをスペインから買い取る”という内容だった。
さすがに米議会でも、フィリピンに対して不公平な内容との反発があり、上院では1票差で承認されなかったが、その後2月4日に発生した「サン・ファン橋事件」という米フィリピン衝突事件でのプロパガンダが功を奏し、2月6日上院で投票が行なわれて承認されフィリピンはアメリカの領土となった。
大国間での条約であり、当事者のフィリピンは国際的に認知もされておらず無力で、夫人が国旗を縫った事でも有名なアゴンシリョを共和国代表としてパリに送ったが門前払いにあい、更にワシントンに派遣して条約の不当性を訴えたが無視された。
最終的に効果のあったのは米・比の開戦で、その事から「サン・ファン橋事件」は謀略との説が信じられている。
* 某国の「盧溝橋事件」と似ている!?
{米・比の敵対関係}
米は、覇権拡張の為の東洋の拠点、特に地政学的に海軍の軍事拠点としての重要性を比に見ていて、国民の支持があるアギナルドを「単なる道具」として利用したに過ぎず、共通の敵スペインに勝利した後はアギナルドを“亡命者”として扱った。 その証拠にパリ講和会議に際しては、フィリピン側に代表権を与えず、相談もせずに一方的に条約の調印を進めた事から明らかだった。
その現れの第一が1898年12月21日に出されたマッキンリー大統領による「慈善同化」宣言で、(為にならない!)フィリピン政府の解体と全土の軍事制圧を宣言したものだったが、まずいと見たオーティス将軍が「占領」「保護」などの原文をあいまいな表現に変えてから1月4日に比側に公表された。
しかし、米側の手落ちでイロイロに駐留していたミラー将軍は原文をそのまま公表してしまい、アギナルド側の知るところとなり、怒った革命政府から対抗文書が公表された。
その中身は、「暴力と圧制の『顔』が変わっただけの状態に止まるつもりは無い」・「もし米がビサヤ地方などで宣言通りの軍事行動に出れば敵対関係に入る」・「本当の圧政者が誰であるか世界に訴える」とした事実上の対米宣戦布告に近いものであった。
しかし乍ら、アギナルドは宣言の一方で装備に圧倒的な差のあるアメリカとの戦争となれば多大の損失は避けられず、国土の荒廃をもたらす結果は火を見るより明らかな為、緊張緩和の方策を模索した。
一方のオーティス将軍は、この文書に危機感を抱き米全軍に対して監視地点の増強と警戒体制入りの指令を出すと共に慰留の会談を持つ対策に入った。
かくして1月9日に会談の申し入れがアギナルド側から出され、双方で合計9人が出席して29日まで会談が持たれたが、米側は装備においては優るものの戦闘員数では劣る為、援軍到着までの引き伸ばしが主目的であった。
最終日の29日になって、一旦中断し31日の会談再開が約束されたが、情勢の悪化で結局は開かれなかった。
{サン・ファン橋事件から開戦}
2月1日には米人技術者がフィリピン軍防衛線内部に進入したかどで連行され、2月2日にはフィリピン軍部隊がマッカーサー将軍防衛線内部に進入するなどの小事件も発生したが、双方が事態解決に動き事無きを得ていた。 しかし、決定的な事件が2月4日に発生したが、それが「サン・ファン橋事件」であった。
2月4日夜8時頃、3人の米パトロール部隊がサン・ファンの町中をパトロール中に4人のフィリピン人兵士と遭遇し、橋を挟んで双方が停止を呼びかけたが米兵達は撃つのがベストとの判断から発砲しフィリピン人兵士1人が死亡した。 その後、米兵6人が加わり9人で部隊を再編成してフィリピン側の動きを監視する体制に入った。
翌5日、この事態を知ったマッカーサー将軍は、配下の全部隊に対し攻撃命令を出し、ここに米・フィリピン間の戦闘が開始された。
夜になって前線のフィリピン軍指揮官は、マロロスに居たアギナルドに電報で戦闘開始を連絡したが、アギナルドは応戦せずに事態を調査する事を命じ、6日にオーティス将軍に「当方の発砲は命令違反」「戦闘停止を望む」との文書を送った。 しかし、勝利を確信していたオーティス将軍の返答は、「戦いは始まった。最後までやるだけ!」との強硬なもので、アギナルドも已む無く全軍に戦闘開始を通報し応戦体制を整える命令を発した。
比側の調査では、事件に先立つ2~3日前にかけて米艦隊で働いていたフィリピン人乗組員は理由も無く全員が解雇されており、4日には200~300人の米軍兵士がマニラから艦隊本部の置かれていたカビテに向かって出港し、艦隊本部から更に多数の兵士を乗せてマニラに到着していた事が判明し、周到に準備を整えた上での開戦であり「仕組まれた事件」と推察される。
また、フィリピン側は1月23日の共和国成立式典の余韻に浸っており、戦列は整っていなかったし、パリ講和会議の行く末に関心が行っていた。
{開戦後の戦況}
戦況は、圧倒的な装備の差と2月下旬から3月初めにかけて米本国から増援部隊が到着したことから米側が一方的に優勢な状況で、責任者のオーティス将軍はマッカーサー将軍の部隊と共にマニラ北方から包囲する形で軍を進め、3月30日には共和国政府の本部のあるマロロスに迫り、アギナルド大統領はマロロスを放棄しヌエバ・エシハ州サン・イシドロへ本部を移すことを余儀なくされた。
南部に投入されたロートン将軍の部隊は、ザポテ・バコール・ダスマリニャスとカビテ州を制圧して行き、ウィートン将軍の部隊はパラニャーケ・ラスピニャスからラグナ湖沿いに進みサンタ・クルース、更には半周したパエテまで制圧した。
武器・食料・訓練・規律において決定的に不足するフィリピン軍は、一部で限定的な勝利はあったものの大勢は変えられず、ズルズルと後退を余儀なくされた。 限定的な戦果は、リサル州サン・マテオで南北戦争の英雄ロートン将軍を狙撃兵が戦死させたが、奇しくもその部隊を率いていたフィリピン将軍の名前がヘロニモ(英語読みすればジェロニモ!)だったと言うのも因縁めいている。
また、フィリピン軍の将軍の中で最もよく戦ったのはアントニオ・ルナ将軍で、ヨーロッパで教育を受け軍事・戦略の知識も持っていたが、激情的な性格で内部からも恐れられていた。 北方に展開してきたマッカーサー将軍との戦いでは、マロロスの北西カルムピットで対峙、側面からの攻撃を指示したマスカルド将軍の不服従に嫌気がさして(頭にきて!)戦線を離脱し、大事な部隊の一部を割いて遠くパンパンガ州まで味方のマスカルド将軍を捕まえる事に躍起となり、捕まえて帰ってみれば戦機は失われていて敗北した。
また、マニラの再占領作戦をアギナルド大統領に進言して了解を得て、カーウィット(アギナルドの本拠地)の大統領警護部隊の協力を要請したが拒否にあうや、「不服従、軍規違反」として大統領警護部隊の武装解除をアギナルドに要求して揉め事となり、また米民間人家庭の焼き討ち指令、軍命令違反の民間人の射殺命令なども出し、さすがのマビニ首相も配置転換をアギナルド大統領に進言する始末だった。
末路は1899年6月アギナルド大統領からヌエバ・エシハ州カバナトゥアンへの出頭命令が出され、部下の大佐と共に出掛けたが待ち受けていたのは、卑怯者と罵られた事のある外務大臣のブエンカミノで、警備についていたのがカーウィットの大統領警護部隊とお膳立てができており、全身に40ヶ所の傷を受けて部下の大佐共々暗殺されてしまった。
*このルナ将軍を描いたのが2018年に公開された映画“へネラル”で、史実を忠実に再現したものとして小・高生の映画鑑賞の対象として推薦されている。
政治の舞台では、過激派?のマビニ首相が「民族の将来の為に命を!」と徹底抗戦を呼びかける宣言を4月15日に発していたが、5月5日ジョン・ヘイ米国務長官が米議会に「フィリピンを自治領に」とする提案をした事が共和国政府に知らされ、政府内のパテルノやブエンカミノに代表される議会多数派=穏健派は受け入れを表明、マビニ首相の更迭をアギナルド大統領に迫った。 アギナルドはこの議会多数派の提案を受け入れ、5月7日パテルノを首相とする文書を出し、マビニも政治の表舞台から姿を消した。
*10ペソコイン・札に登場するマビニは、その後捕らえられてグアム島に流刑されてしまった。
{アギナルドの北方逃避行と逮捕}
ルナ将軍の暗殺で共和国軍の規律は乱れ、多くの部隊が米軍に投降する事態が起り始め、チャンスとみたオーティス将軍は補給路を絶つ目的からパンガシナン州のリンガエン湾に向け大部隊を派遣し、マッカーサー将軍に命じてアギナルドの北方山地への追い出し作戦を進めた。
10月12日に米軍は一斉攻撃を開始し、アギナルドは本部をヌエバ・エシハ州サン・イシドロからターラック州、更にはヌエバ・ビスカヤ州バヨンボンへと移した。 そこでも全方向からの攻勢に会い、11月13日には妻子・母・姉妹などの家族と数名の閣僚で列車に乗り、リンガエン湾沿いのカラシアオまで逃げて山中を休息もそこそこに逃避行を続けたが、障害となる女性達を12月25日説き伏せて降伏させ、更に北に向かいカガヤン州まで到達、そこから反転してイサベラ州の東海岸近くのパラナンという周囲を山に囲まれた「天然の要塞」と言うべき地に辿り着いた。
この間の逃避行で後衛を守っていたのが挙兵以来の部下であったグレゴリオ・デル・ピラール将軍で、有名なパソン・トリアッドの戦いで現地住民の手引きによる米軍の襲撃で戦死している。
何としてでもアギナルドの拘束を目指した米軍は、フューストン大佐の指揮で逮捕計画を策定し、投降してきた共和国軍の士官や伝令を使い、地理に明るい原住民のマカカベス人を使う事にした。 まず共和国軍のラクナ将軍の筆跡を真似て「捕虜にした米軍人をパラナンに護送する」との命令書を作成し、投降してきた伝令に持たせて信用させた後で、大佐本人ら5人の米軍人がマカカベス人に捕まったふりをして、これも投降した共和国軍の兵士85人と共に1901年3月23日に天然の要塞パラナンに入った。
すっかり信用して迎えに出たアギナルドに対し、護衛役を務めていたフィリピン軍元士官の1 人が背後から掴みかかり、もう1 人の元士官がアギナルドの護衛役を撃ち倒した。
アギナルドもピストルを抜いて反撃しようとしたが、側近のサンチャゴ・バルセロナはそれを止め、「フィリピンの為に生き残って戦いを続けて欲しい!」と説得、ここに共和国初代大統領アギナルドは米軍に逮捕され、4月1日にはマニラに移送されてマラカニアン宮殿でマッカーサー将軍と会見し、4月19日にはフィリピン国民に対し、アメリカの統治を受け入れるように要請する宣言を出した。
その後もバタンガス州でマルズール将軍は、1902年4月16日までゲリラ戦を戦うなどの抵抗は続き、1903年9月25日に降伏したシメオン・オラ将軍が第一共和国最後の将軍であった。 この間に投入された米軍は、総数 126,248名で戦死者は 4,234人と記録されている。
{最後に}
ルソン島中心の戦史を記したが、ビサヤ地方でも「ミンドロ共和国」など様々な動きがあり、ミンダナオ地方では全く別の文化であるイスラム勢力との戦いがあって、現在までその底流がある。 また、カトリックという宗教面から見れば、今なお多数の信者を抱える「比独立教会」の誕生などの多彩な動きのあった時代であり、歴史好きの者には興味が尽きないが、取り敢えずこの国に縁あって暮らす者にとっての標準知識として「第一共和国の歴史」を綴ってみた。
フィリピンの近代史
フィリピンの近代史(1)~独立革命の第一幕・カビテ州
フィリピンの近代史(2)フィリピン独立革命の第二幕~第一共和国の興亡
フィリピンの近代史(3)~アメリカの植民地政策