フィリピンの近代史(3)~アメリカの植民地政策

フィリピン日本人商工会議所
副会頭・専務理事 藤井 伸夫

米西戦争でスペインを圧倒的な力で破り、フィリピン革命政府=第一共和国の軍事制圧を経て、米にとって初めての植民地経営が始まった。
特徴的なのは、当初からフィリピンの支配階層・知識人を統治システムに組み入れた事で、民主主義を育成し植民地を独立国家として養成する観点があったことが、東南アジアに於ける他の欧州諸国の植民地経営と大きく異なっていた。従って、コモン・ウエルス政府という自治政体への移行についても、暴力・流血という事態は発生せずに政治的な革命以前の“社会革命”も必要としなかった。この事は“良くも悪くも”その後のフィリピン政治に大きな影響を与えている。

また、自治政体の後には「独立」が約束されていた為、日本の侵攻・占領がインドネシアやベトナムにおいて「宗主国のクビキからの解放」という観点を持ち得たのに対して、ここフィリピンでは「独立への動きを阻害した」と受け止められる事にも繋がった。

*第二次世界大戦で日本軍50万人・比人100万人の死者を出した“太平洋地域の最激戦地”であったが、駐在期間中に“対日感情”で問題になるケースには遭遇していない。また、当時の桂大使から紹介頂いた2009年のBBCによる主要国の“好感度”調査でも、対象国18カ国中でフィリピンの日本に対する“好感度”はトップの76%で、インドネシアの70%を上回っている。

植民地経営の中で“フィリピン化”(フィリピンをフィリピン人の手に!)と言われる動きは、1897年からのウィリアム・マッキンレー、セオドア・ルーズベルト(2期)、ウィリアム・タフトと続いた16年間の保守的な傾向を示す米共和党政権時代から厳然としてあった。その後、1912年の米大統領選挙で民主党のウッドロー・ウイルソン(2期継続で1921年まで)が当選し、民主党のリベラルな政策に従って“フィリピン化”が加速されて、一層の“急速なフィリピン化”が進められた。その後、再び共和党政権に移行すると、再び「独立先送り=植民地主義」の傾向に揺れ戻したが、次に民主党政権に移行して自治・独立の方向が確定した。

その際には、単純にリベラルな思想によって進められただけでは無く、政権の支持母体である米の労働者・農民の意向を重んじる形となった。つまりは、本国の政権の動きに左右されるのが植民地経営の第一の特徴であった。

もう一つの特徴は、この時代に活躍したフィリピンの支配階層の動きである。スペインの植民地時代に勢力を蓄え、米が宗主国に代わってからも自派勢力の拡大と安定化に最大の努力を傾注し、党派・利害得失・中央対地方などの対立を巧みに利用し、サバイバルを図っていった人物群像である。これらの人々は、ほんの1~2世代前の人々であり、現在のフィリピン政界にも大きく影響を与えていて、現在の政界の動きを理解する場合に大きな助けとなる。

更に、日本占領のシンボルであったGHQのマッカーサー元帥の動きも見逃せない。当地に来てコレヒドール島を訪問してガイドの説明を聞き、各地の残されている立像にお目にかかった人も多いと思うが、前回にも触れたように、父アーサー・マッカーサー将軍と息子ダグラス・マッカーサー将軍父子は、古くからフィリピン・日本に大きく関わっていた。

それでは、第3回を!

[統治体制]

1)フィリピン委員会=行政機関
米西戦争の開戦当初の1898年には、米大統領直轄のフィリピン委員会が結成されて非軍事的アプローチが早くも開始された。革命軍の軍事制圧以降の「民政移管」の方針は原則的に固められていて、同委員会は「フィリピン支配の中枢」と認識されていて当初軍司令官と並列した位置にあった。1901年7月4日には初代総督としてウィリアム・タフト(その後米大統領)が任命されて「民政移管」が実現されると、フィリピン委員会は総督直下に置かれて中央政府=行政府の機能を果たした。当初は米人が多数を占めていたが、1913年までには比人が多数派を形成するようになった。

最初に任命されたフィリピン人閣僚は、1903年に財政・法務長官となったグレゴリオ・アラネタで、1921年までには行政組織のトップの96%がフィリピン人によって占められるようになり、ほぼ完全に“フィリピン化”が進行した。

*初代総督のタフトは、最後の軍司令官=軍事総督だったアーサー・マッカーサー陸軍中将を意見対立から更迭したが、子息のダグラス・マッカーサーは陸軍士官学校に首席入学して在学中だった。
ダグラス・マッカーサーは、1903年6月に前代未聞の平均98.14点という成績で首席卒業し、同年10月には工兵隊少尉としてフィリピンに赴任した。その赴任中にマニュエル・ケソンやセルジオ・オスメーニャといった比の新進気鋭の政治家と親交を結び、特にケソンとは生涯に亙る緊密な関係となり日米開戦後のコレヒドール島では苦難の日々を共にする事になるが、この初回の赴任はマラリアに罹った為に 1904年10月に米本国に帰任して終っている。

*父のアーサーはその後、日露戦争の観戦武官として満州に派遣され、更に1905年に駐日米大使館武官に任命されると、息子のダグラスを副官として東京に呼び寄せた。その後、ダグラスはホワイト・ハウス、参謀本部に勤務し、弱冠36歳で大佐に昇進して第一次世界大戦ではフランス戦線での軍功で38歳で准将となって“将軍”となり、帰国後は陸軍士官学校の校長を務めた。更に1922年にフィリピン軍管区司令官・米軍フィリピン人部隊司令官として2度目のフィリピン勤務を行なっている。

2)立法機関
最も“フィリピン化”の遅れていたのは「立法府」で、1907年7月30日に総選挙の投票が行なわれ“フィリピン人のみで構成される議会”(フィリピン・アセンブリー)が動き出した。
投票率は100%に近く数百人が立候補したが、当選者は80人で大半が ナショナリスタ党(NP)からだった。10月16日マニラ・グランド・オペラ・ハウスで初めての議会が開かれ、セブ出身のセルジオ・オスメーニャが初代議長に選出された。

この議会は現在でいう「下院」の機能を果たし、フィリピン委員会が「上院」の機能を果たし、事実上の“二院制”がスタートした。

*この“NP”は、マニラ市トンドの貧しい家に生まれ、テラピアの運送業者から不動産業に進出し、下院議員・上院議員時代を含めて国会議員の長者番付トップを走り続け、2010年大統領選に出馬したビリアール氏に率いられる最も歴史ある党として現在も残っている。また、初代議長を務めたオスメーニャの一族は、セブの有力政治家としての地位を現在も保っている。

更に米本国で1916年ジョーンズ法(比統治の基本法)が成立してフィリピンで総選挙が行なわれ、10月16日に最初の国会がマニラで開催された。上院は、現在と同じ24人の定員となり、内22人が公選となった。2名はイスラム・高地原住民に配慮して非キリスト教徒から総督が任命するという仕組みで、下院は公選制が維持されたが、当時の選挙は国際的な基準からしても“制限選挙”で、全ての国民が投票権を持つ“普通選挙”では無かった。従って選出された議員は、地主・事業主・“インキリノ”などの上層階級で占められたが、これらの階層はスペイン植民地時代には実質的なパワーはあったものの、その社会的地位が認知されておらず、これらを認知して統治に組み入れた事が米植民地政策のうまく機能した要因だった。米政府は植民地経営において、優越した軍事力で圧政的に統治するよりも、経済の支配が有効でコストも掛らないと知っていた。

上院議長にはタヤバス出身のマニュエル・ケソンが選出され、下院議長にはセルジオ・オスメーニャが再選された。

*ケソンは、オスメーニャとはサント・トーマス大の同級生で、当時州であったタヤバスの州知事からワシントン駐在の比議会代表となり、比の最大の理解者と言われたハリソンをフィリピン総督としてウィルソン米大統領に推薦するなどし、このジョーンズ法成立のロビー活動に尽力した。その後、タヤバスを含む地域はケソン州と名前を変えている。

3)司法機関
「司法府」は最も早く“フィリピン化”されていた。最初のフィリピン委員会のメンバーでサント・トーマス大教授だった カエターノ・アレリアーノが1901年に最高裁判所が組織されて最高裁長官に任命され、下級裁判所判事の任命権、訴訟手続きなどを掌握し、完全な“フィリピン化”が三権の中で一番最初に実現されていた。

4)地方自治体
革命政府軍が米軍によって敗走すると、それぞれの地方・地域に根ざした上層階層が実権を握り、州政府・市町政府を米軍の支持で立ち上げていった。当初米から派遣されてきたのは軍隊であり、地方に配置できるほどの行政スタッフがいた筈も無く、地方において米軍に協力的な者をトップに体制が整えられていった。軍事面において主導権は米軍が握ったものの、マンパワーの大勢は地方の出身者で占められ、財政面のトレジャラー=財政担当官だけは米が掌握していた。

[フィリピン化の限界]

このように“フィリピン化”が進行したとはいえ、植民地である限界は厳然としてあった。
「立法」においては、総督並びに米大統領はどのような法令に対しても「拒否権」を保持していたし、「行政」では米議会は比の通商・貿易に対しての法制を定める権限を有していた。特に、比は農産物や工業製品の原材料供給地として位置付けられ、工業製品は米からの輸入とする政策が採られた。また「司法」においては、米最高裁は比最高裁の判決をオーバー・ルールすることが出来た。

一般的なものでは、「国旗」の掲揚は禁止されており、文書や公的な発言は全て「英語」でなけ
ればならなかった。

また、1914年に勃発した第一次世界大戦では、駐留していた米兵士や米艦船がヨーロッパ戦線に投入された為、各地の米軍基地はフィリピン人部隊(フィリピン・ナショナル・ミリティア)が代わって運営する事になり、米陸軍には25,000人、米海軍には6,000人のフィリピン人が兵士として志願して加わった。更に、米赤十字社には百万ペソの寄付を行なうと共に、4千万ペソ相当の戦時国債を購入して支援した。

*強制徴用としての参戦では無く、「独立を認める」という米の既定方針の促進を信じての志願による参戦であったというのが一般的な理解で、人種雑居国家として人種差別が比較的穏やかであった米の優位な点も寄与した。

[独立に向けての動き~総督府の治世]

1920年の米大統領選挙で共和党のウォーレン・ハーディングが当選すると、フォーブス前総督とウッド陸軍中将の率いたミッションが送り込まれ、「独立の準備が整っているかどうか」という調査が4ヶ月に亙って行なわれた。結論は、「近い将来でも、米が手を引くのは無理。民主党政権の失政。」という多分に政治的なもので、指摘されたポイントは次の通りだった。

①健全な公共の意思を形成する有効な報道の欠如
②財政の不健全さ
③裁判の遅延
④基礎・上級教育における教師の不足
⑤少数民族などマイノリティーへの政策と保護の誤り

*このレポートで指摘された項目は、その多くが現在にも当てはまるように思える。僅かに①については、3つの全国紙と2大TVネットワークの存在で改善は見られるが、地方の状況は変わり無く、他の4点は現在もそのまま当て嵌まるように思える。

米共和党政権は、このミッション・レポートを承認してハリソン総督を更迭し、新総督に調査を担当したレオナード・ウッドを任命した。ウッド総督は1921年から1927年までその職にあったが、この間、比米関係は“比米戦争以来、最大の危機”と言われる時を迎えた。

[ウッド総督(1921~1927年)の治世]

ケソン上院議長を中心とするフィリピン人リーダーは、ジョーンズ法という「米議会の承認無しに、大統領又総督も基本政策の変更は出来ない」、「行政においてはフィリピン議会との協調を基本とする」という法的根拠もあったことから、“米の権益に触れない限り、総督の干渉は無いもの”と理解していて、フィリピン人リーダーによる“自治”を謳歌し享受してきた。

そこに登場した軍人上がりのウッド総督は、ミッション・レポート指摘事項が改善されない限り「独立」は無いとして、当面“独立は忘れるよう”要請して「植民地としての統治・支配」を実行する強権的な管理方針を示したことから、同総督を“比の自治と独立の敵”とみなすナショナリスティックな国民感情が沸騰し、1923年7月「全閣僚辞任」という事態に至った。

*比側も相当に強硬で、この事態以降 ウッド総督の任期が終る 1927年まで閣僚ポストの空席は継続され、上院は総督の任命した閣僚人事を一切承認しない形で抵抗し続けた。総督はケソン上院議長の責任と追及したが、“遵法闘争”と踏ん張り続けた。

所謂「内閣危機=キャビネット・クライシス」の勃発であるが、これには1922年総選挙でのフィリピン政界の内紛も背景にあった。ケソン上院議長と連合を組んできたオスメーニャ下院議長は、「人々の信頼を裏切る行為あり」としてNP党内に分派を形成し、少数派ながら民主党も勢力を伸ばした事からケソン上院議長は主導権を回復する必要に迫られていたのが大きな要因だった。

更に、マニラ警察局の秘密警察の要職にあった米人 レイ・コンレーのスキャンダル事件も絡んでいた。マニラの犯罪組織との関係もあったコンレーに対しては、愛人問題や不正手続きなどで検察庁や公務員管理機関に告発が再三行われたがモミ消された為、司法当局は1922年7月22日ウッド総督に刑事告発状を提出し、翌日には ラモン・フェルナンデス・マニラ市長に対して捜査命令が下った。マニラ警察本部長(米人)は「コンレーに敵対する賭博業者の扇動によるもので、コンレーは賭博ビジネスから不当な利益を得ていない」とする報告書を12月28日に総督に提出し、当然にも総督は告発を却下した。

これに対して ホセ・ラウレル内務相の下には多くの賭博業者から、「コンレーは賄賂を取っている」との告発が重ねて寄せられ、フェルナンデス・マニラ市長とラウレル内務相は、市政府と内務省による行政捜査・行政裁判を行なうべきとの進言を総督に行なったが、総督は応じずに地方裁判所での刑事裁判の審理を命じた。そして、当然にも地方裁判所は、証拠不十分として嫌疑を退けた。

*ここに登場するホセ・ラウレルは、後の日本占領時代の共和国大統領(1943年10月~1945年8月15日)で、比の教科書においても第4代大統領と教えられている。終戦後は連合軍極東軍事裁判=東京裁判で被告となっている。

この「内閣危機」後のウッド総督の強権ぶりを示すデータとして、総督に認められた“拒否権の発動”回数がある。1923年10月から1924年2月までの第6国会では、217の法案・決議案に対して46回、続く1925年から1926年の第7国会では196法案に対して68回の拒否権が行使されたが、前任のハリソン総督時代の「7年間で5回」と較べると“異様”な状況がわかる。

また、ウッド総督は自由競争主義の立場から管理委員会(BОC)への不介入政策を進めた。
本来、植民地政府はビジネスに深入りすべきで無いとして、砂糖産業などの国有企業やビジネスへの総督府の介入撤廃が進められた。ハリソン前総督=米民主党政権の大義名分は「公共の福祉の優先」「無用な企業間の争いの回避」というもので、統制経済色が強く自由競争原理を制限するものだった。ただ、フィリピンの支配階層は、自由競争は「米資本の市場独占=自らの権益への侵害」を意味する事から反対で、BОC=植民地政府の引き続きの介入を歓迎していて、ここでも総督とフィリピン支配階層とは対立した。

最終的に我慢の限界に達した ウッド総督は、離任直前の 1926年11月にBОCの組織を消滅させる命令を発し、全ての経済統制機能を総督の“直属”に変えてしまった。

ウッド総督の治世は、「総督の統治権を守ろう」という総督と、「自らの権益を守りつつ独立を達成しよう」というフィリピンの支配階層とのぶつかり合いで、政策だけでなく感情面での対立も顕在化した“独立への揺籃期”であった。

*軍人上がりのウッド総督は、比のリーダー層の“身内贔屓”“汚職体質”を嫌っていて、これを糾すことが自分の任務で、そうしなければ独立も覚束ないと堅く信じていた模様で、「比の国民感情」「比人のメンタリティー」に対する想像力の欠如、上意下達のストレートな思考、米への過信、経済に対する理解の薄さが問題だった。 以降の総督のヘンリー・スティムソン(1928-29)、ドワイト・デイヴィス(1929-32)、セオドア・ルーズベルトJr(1932-33)、フランク・マーフィー(1933-35)は、フィリピン政治家とうまく付き合い、大きな問題をおこさなかった。

[独立に向けての動き~比議会の動き]

米民主党政権下にあった 1918年11月、議会内には早くも「独立委員会」が形成されていた。当初の構成は 上院議員11人、下院議員40人で両院議長が共同委員長を務めた。多数派のNPが主導権を握っていたが、その後は全議員をメンバーとする“全体委員会”となった。

当時のメンバーを見てみると、多数派のNPには 既に名前の出てきた ケソン、オスメーニャ、ロハスの他に暗殺されたニノイ・アキノ上院議員の父、後に大統領となるキリノの名前がある。

同委員会は、1919年に第一回のミッションとしてケソン上院議長とパルマ上院議員に率いられた国会議員や各界からの代表40名をワシントンに派遣したが、米側は第一次世界大戦の終結直後で戦後体制構築に忙しくて関心は薄く、ウィルソン大統領も欧州にいて不在で決定的な発言も得られなかった。その後、ウィルソン大統領は任期末になって米議会に対して8年の在位中で初めて“独立容認”のコメントを出したが、当然にも次期共和党政権は無視した。

続いて1922年に、ウッド=フォーブス・レポートに対するコメントという形で第二回のミッションがケソン上院議長・オスメーニャ下院議長を代表に派遣された。ハーディング共和党政権は上述のように「独立先送り=植民地統治の強化」に舵を切り替えており、ミッションの「いつ・どんな形で独立が達成されるのか」という最大の関心事に対しては、「後退は無い」と言明しただけだった。1923年には特別ミッションが、新たに選出されたマニュエル・ロハス下院議長を代表として派遣され、ウッド総督の“軍人風”統治に対する不満も表明した。これに対する米側の対応は、ハーディング共和党政権を継いだ同じ共和党のクーリッジ大統領の1924年2月21日付の書簡で明らかにされたが、「比の状況は未熟。総督への不満はもっての他。」という厳しい内容だった。

*このマニュエル・ロハスは、2010年選挙の副大統領選でビナイ副大統領に敗れ、2016年選挙の大統領選でドゥテルテ大統領に敗れたロハス元上院議員の祖父で、第二次世界大戦後の第三共和国の初代大統領となった人物。

一方米議会では、これらのミッションに対して同情的な動きが見られるようになってきた。
1924年4月に フェアフィールド法案が下院委員会で急遽審議されることになった。ロハス下院議長の特別ミッションが到着して4日後の事で、マニラにいたケソン上院議長とオスメーニャ前下院議長は事態の急転直下の動きを知って、少数派のデモクラタ党のクラロ・レクトと共にワシントンに急行した。到着した時点で委員会は既に通過し、下院本会議で審議中であった。内容は「30年間の自治」と「その後の独立」を骨子とするもので、最終形は「1924年から1943年までの20年間を自治=コモン・ウエルス期間とし、1944年に完全独立を与える」というものだった。

問題は比側の“ウッド総督批判”ミッションの存在で、ロハス下院議長の特別ミッションが「ウッド総督治政の批判」をメインにしており、事後参加のケソン・オスメーニャという穏健派が加わったとしても米議会にとっては不満で、提案者のフェアフィールドも「フィリピンの反対派がいる目前での自分の法案の議会通過は望まない」と発言、審議は中断されて進行が止まってしまった。

このロハスによる“ウッド総督不満ミッション”にケソン・オスメーニャが加わった事実上の「第3回ミッション」は、独立承認の寸前まで行った末での中断劇となった為、帰国してからが大変だった。デモクラタ党のクラロ・レクトは、ミッションを率いたナショナリスタ党のケソン・オスメーニャ・ロハスの3人を「フェアフィールド法を通して、ウッド総督の圧政維持と独立を取引した」と非難した。以降、ケソンは「早期独立」という過激な立場から一歩後退し、米では1924年にクーリッジ大統領が再選されて共和党政権が継続する事となった為に、急速な独立の達成は先送りされる形となった。

*ケソン上院議長は、国家最高委員会を結成して全方向での意見統合を図るなどしたが、反って多様な意見が入り込んで焦点がぼやけ、自らの政治基盤を確固たるものにしょうという陰謀的な動きと見られた。米議会では、この法案以降も小刻みな動きはあり、現在も続くイスラム地域の問題についてベーコン法案ではミンダナオ・スルー・パラワンを分割するという案も提案されたりした。

*このレクトは、NEDA長官などを歴任した後に上院議員となり現在は上院議長代行の職にあるレクト現上院議員の祖父。レクト現上院議員の妻は女優で、バタンガス州知事から下院議員となっているビルマ・サントス。

フィリピン議会では、法的な正当性を求めての動きも加速され1925年11月「独立に付いての住民投票法」が可決されたがウッド総督が拒否権を発動、1926年には再上程されて再可決され、再びウッド総督の拒否権発動に遭ったが、賛成者が三分の二以上であった為に規定によりクーリッジ米大統領の裁定が求められた。

クーリッジ大統領は、1927年4月「経済的・政治的な進歩が第一」として総督の拒否権行使を支持し、“独立国家としてやっていけるレベルに達していない”として、独立の動きを葬り去った。

*この時期、ダグラス・マッカーサー将軍は三度目のフィリピン勤務を行なっている。1928年陸軍最年少記録で少将に昇進していたマッカーサー将軍は、父の占めていたフィリピン方面軍司令官として着任した。
旧友のケソン・オスメーニャなどとの親交を深めつつ、将来の防衛に担い手としての米陸軍フィリピン人部隊の強化に努めた。戦略問題では「日本の脅威」への対策に腐心したが、1万7千名の米軍部隊で日本に対抗出来るか(侵攻後6ヶ月は持ちこたえろという方針のオレンジ・プラン)という問題であった。1930年にはフーバー大統領に呼ばれて帰国し、50歳で第8代陸軍参謀総長に就任し大将(待遇)となっている。

[コモン・ウエルス政府への動き]

以後もケソン、ロハス、オスメーニャは度々ミッションを派遣し続けたが、クーリッジ大統領の後継も共和党のフーバー大統領だった為に基本政策に変更は無かった。このような“膠着状態”を打開するキッカケとなったのは、1929年に発生した“大恐慌”だった。

参考文献:
TEODORO A. AGONCILLO “HISTORY OF THE FILIPINO PEOPLE”
GREGORIO F. ZAIDE “PHILIPPINE HISTORY AND GOVERNMENT”
増田 弘「マッカーサー」(中公新書 1992)
鈴木 静夫「物語 フィリピンの歴史」(中公新書 1367)

フィリピンの近代史

フィリピンの近代史(1)~独立革命の第一幕・カビテ州
フィリピンの近代史(2)フィリピン独立革命の第二幕~第一共和国の興亡
フィリピンの近代史(3)~アメリカの植民地政策